ブータンの歴史について

HISTORY OF KINGDOM OF BHUTAN

近代以前のブータン 〜チベット仏教到来からシャブドゥンの時代まで

チベット(吐蕃)王ソンツェン・ガンポ

チベット(吐蕃)王ソンツェン・ガンポ

チベット仏教の始祖、パドマサンババ(グル・リンポチェ)

チベット仏教の始祖、パドマサンババ(グル・リンポチェ)

ブータン建国の祖、シャブドゥン・ガワン・ナムゲル

ブータン建国の祖、シャブドゥン・ガワン・ナムゲル

ブータンの歴史は大きく近代とそれ以前に分けることができます。

現在のブータンがある地域では紀元前2000年頃には既に定住していた民族がいたとみられていますが、れっきとした事実として記録が残っているのはチベットから仏教がもたらされた7世紀頃からとなっています(チベットからもたらされたというよりも、この時期はチベットの一部分という認識です)。

チベット(吐蕃)王ソンツェン・ガンポの布教活動の一環としてパロのキチュ・ラカン、ブムタンのジャンパ・ラカンの2つの寺院が建立され、それがブータンの地における仏教のはじまりとされています。

8世紀に入るとチベットではティソン・デツェン王のもと仏教が国教と定められ、その始祖ともいえるパドマサンババ(グル・リンポチェ)が南チベット(=現在のブータン)での布教を行なっています。その過程でパロのタクツァン僧院(タイガース・ネスト)などが建立され、この地域一帯にチベット仏教が浸透していったものとみられています。

その後、9世紀に吐蕃の王制が崩壊し、チベット仏教の本家は分裂の時代を迎えることになります。ブータンでもその影響を受け、その後数百年間どのような歴史を辿ったのかを明確に示す資料はあまり残っていません。

11世紀になるとチベット仏教は復興の兆しをみせ、パドマサンババのニンマ派などに加えて14世紀にかけてカギュ派、サキャ派、ゲルク派などの新しい宗派も多く生まれました。

ブータンではカギュ派の支派であるドゥク派が特に西部では支持を集めていましたが、1616年に後継者を巡ってドゥク派の内紛が勃発します。これはドゥク派の総本山ラルン寺の座主(=ドゥク派の指導者的立場)をめぐったもので、16代座主のミパム・チェキ・ギャルポの後継者をペマ・ギャルポの化身ラマ(転生)として自身の孫であるシャブドゥン・ガワン・ナムゲルを認定し、当時派内で無視できない存在となっていた化身ラマの系譜を自らの血統に取り込もうとしたことが発端です。当時のチベット中央政府(ツァンパ政権)の介入の結果、ドゥク派は南北に分裂することとなり、ガワン・ナムゲルは南ドゥク派として現在のブータンに移住、ここで自らの政権を樹立することになります。これが「ドゥク・ユル(龍の国)」、国家としてのブータンの始まりです。

この頃からブータンとチベットは切り離された歴史を歩むことになり、チベット・ツァンパ政権、そして当時チベットに度々侵攻していたモンゴルによって侵攻を受ける対象となります。そのツァンパ政権は1642年にモンゴルのグシ・ハーンに征服され、ゲルク派の化身ラマ名跡「ダライ・ラマ」を頂点とする体制が確立されましたが、その後もブータンへの侵攻は100年以上に渡って続くことになります。

この侵攻に対し、シャブドゥン・ガワン・ナムゲルは当時分裂状態にあったブータンを団結させ度々撃退することに成功し、その指導力とカリスマ性で国家としての団結力をより強めていくことに成功します。ガワン・ナムゲルは1651年に没しますが、チベット・モンゴルの侵攻下においてもドゥク派を国教として民衆に浸透させ、さらにブータン国内各地に今も機能するゾンを建設し、国家としての基礎を固めることに成功します。このような経緯から、シャブドゥン・ガワン・ナムゲルは「ブータン建国の祖」として神聖視されていて、ほぼ全てのドゥク派の寺院では釈迦、パドマサンババと並んで本尊となっています。

シャブドゥンの死後、ブータンの政治はシャブドゥンの化身(転生したと認定される者)を頂点に、ジェ・ケンポ(最高僧)とデシ(政治の長・摂政)、ペンロプ(地方行政長)が実際の国の運営を担当するシステムが採られ、これは現王朝の体制が確立するまで続くことになります。

近代ブータンとワンチュク王朝体制の確立

ブータン王国初代国王、ウゲン・ワンチュク

ブータン王国初代国王、ウゲン・ワンチュク

シャブドゥンを頂点とする政治体制が確立されたとはいえ、国内は決して平穏を保っていたわけではありませんでした。

特に東・西・南の3地域に配置されたペンロプ(地方行政長)はそれぞれが力を持つことによって諍いが起こり、それら同士の対立や、各々が隣国であるアッサム、ベンガルなどのインド北部の平野部を植民地化していました。

このブータンの南進は19世紀徐々にインドの支配力を強めていたイギリス帝国の反発を招き、1864年に武力衝突となります。「ドゥアール戦争」とも呼ばれるこの戦争は5ヶ月の直接的戦闘の後、ブータンは降伏の上アッサム、ベンガルなどの植民地を割譲し、その代わり年間50,000ルピーの補償金を受け取る「シンチュラ条約」を1865年11月にイギリス帝国と締結しました。

時をほぼ同じくして、トンサ・ペンロプのジグミ・ナグメルはパロ、プナカで起こった内乱を制圧し、パロで自身の地位を固めつつありました。その息子ウゲン・ワンチュクも若いながらもその存在感を強め、1883年にはブータン最後の内戦として知られる「チャンリミタンの戦い」で4,000人の兵を率いてティンプー、プナカの反乱軍を撃破、ドゥアール戦争以降続いていた内乱の時代に終止符を打つことに成功しました。

そして1907年、プナカで行われた宗教界と各地の代表者会議でウゲン・ワンチュクを初代国王選出、そして王制をワンチュク家による世襲制とすることが決定されます。これが、近代ブータンの始まりとも言える出来事で、ウゲン・ワンチュクはシャブドゥン・ガワン・ナムゲルに次ぐ「国家の父」として後世に語り継がれる存在となった瞬間でもあります。

ワンチュク王朝と現代ブータンへの歩み

ブータン王国第2代国王、ジグメ・ワンチュク陛下

ブータン王国第2代国王、ジグメ・ワンチュク陛下

ブータン王国第3代国王、ジグメ・ドルジ・ワンチュク陛下

ブータン王国第3代国王、ジグメ・ドルジ・ワンチュク陛下

ブータン王国第4代国王、ジグメ・シンゲ・ワンチュク陛下

ブータン王国第4代国王、ジグメ・シンゲ・ワンチュク陛下

ブータン王国第4代国王、ジグメ・ケサル・ワンチュク陛下とペマ王妃

ブータン王国第4代国王、ジグメ・ケサル・ワンチュク陛下とペマ王妃

ウゲン・ワンチュクは即位後、内政の安定化と教育・インフラの近代化を積極的に行いました。また、1910年にはイギリス帝国とシンチュラ条約の改訂版ともいえるプナカ条約を締結します。これによって、独立を保ちながらイギリス帝国の保護下に入るとともに、当時勢力を拡大していた清の脅威を排除することに成功します。政治的・経済的にはイギリス帝国・インドとの結びつきを強化し、心の拠り所である宗教は強いチベットへの帰属意識を残すという現在のブータンとほぼ同じ状況がこの時点で確立されたといえます。

第2代国王にはウゲン・ワンチュクの息子、ジグメ・ワンチュクが即位(1926年)して前代の路線を受け継ぎ、20世紀前半の激動の時代を乗り切ります。1948年にはイギリスから独立したインドと「インド・ブータン条約」を締結、プナカ条約を継続するとともにインドとの結びつきをさらに強化していきます。

1952年、第3代国王ジグメ・ドルジ・ワンチュクが即位すると、様々な内政改革を行い現代ブータンに礎を築いていきます。1953年には国民議会の設置、1961年に経済発展のための五カ年計画策定、1968年には国家元首・宗教的指導者たる国王の権限を制限し、さらには議会による国王不信任決議権までを導入し国民議会の独立優位性を認め、段階的に絶対王政から立憲君主制へ移行すべきとの方向性を示しました。さらに1971年には国際連合への加盟が承認され、名実ともに国際社会の中のブータンという国家が確立されていった時代といえます。

ジグメ・ドルジ・ワンチュクは1972年に滞在先のケニア・ナイロビで急死し、ジグミ・シンゲ・ワンチュクが若干16歳という若さで第4代国王に即位します。彼の政策は先代を踏襲したもので、即位時点の年齢が若かったこともあり、急進的に改革を進めたことによって60年代前半の混乱を招いた前代と違い、長期に渡ってその手腕を発揮できたことが結果として良い方向に働いたといえます。

特に彼の提唱した国民総幸福量(Gross National Happiness GNH)は、国民総生産(GNP)で表される経済的・物質的な豊かさではなく、「心の豊かさ」による幸福を目指すべきであるという思想は、国際社会に大きな衝撃を与えることになります。内政面では前代に引き続き議会への権限移譲や行政の長としての首相職の復活(1964年のジグメ・パルデン・ドルジ首相暗殺以降空位→廃止)を行っています。

このように革新的な一面を持ちつつも、ブータンという国家のアイデンティティの保護も重要課題とする保守的な面も持ち合わせていて、1989年の「ブータン北部の伝統・文化に基づく国家統合政策」によって民族衣装(ゴ・キラ)の着用義務、ゾンカ語の公用語化、伝統的儀礼の実施と尊守などを課しています。しかし、この保守的政策は南部のネパール系住民を中心に反発を招き、反政府・反王室運動に発展してしまいます。結果、軍・警察による弾圧が行われ、約12万人ともいわれる難民が発生しネパールなど国外へ脱出する事態となります。長年この問題はブータン・ネパール両国でその処遇について協議が途切れ途切れに行われていましたが、2003年以降第三国への移住プログラムが開始され、2011年までに約半数が難民生活を脱しています。

ジグメ・ドルジ・ワンチュクによる政策的改革の最終段階は、それまで成文化されたことの無かった憲法の制定と完全な立憲君主制・議会政治制への移行準備と、自ら国民にその重要性を説くことにありました。

そして2005年、当初の予定よりも前倒ししてジグメ・ケサル・ワンチュクへの譲位と、総選挙の実施、立憲君主制への移行を宣言します。2006年、予定通りジグメ・ケサル・ワンチュクが第5代国王に即位、2007年から2008年にかけて新設された国家評議会と従来の国民議会の二院制国政選挙が実施され、併せて新憲法が公布されました。

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